左目から見た世界

好きに生きるわ。

no title

母さんが亡くなって、2週間以上が経った。
葬儀が終わってからしばらくの間、私は広島にいた。
ずっと弟と妹夫婦と一緒にいたから、寂しさを感じずに済んでいるのかもしれないと思っていた。
そして
いつか自分一人になった時、寂しさに堪えきれなくて泣き叫んでしまうんだろうなと思っていたから、それがちょっと怖いなーと思っていた。

今、大阪に一人でいる。
いざその時が来て

私は泣けない。

寂しさを我慢しているとか
辛さを我慢しているとか
そういうんじゃなくて

寂しくないのだ。
辛くないのだ。

母さんが亡くなってもちっともピンとこなくて
実感が全く湧いてこなくて
母さんは生きている気がして
生きているとしか思えなくて

だからか、悲しむ理由が見つからない。

母さんに触れることはもうできないけれど
母さんの声を聞くことはもうできないけれど
そんなの私には、些細なことにしか思えなくて
思わず写真に向けて言ってしまう。

「母さん、本当に死んだの?」

写真はもちろん答えない。
けど
ふっとイメージが入ってくる。

「いるよ」

イメージが見える。
母さんが何を言っているのか、分かる気がする。

おかげで、ますます母さんが亡くなったとは思えなくなった。

もういいや。
私、母さんが死んだと思えないなら、思えなくてもいいや。
今はそれでいい。
無理に、死んだことにしなくていいや。
だっているし。
肉体が無くなっただけで
姿が見えなくなっただけで
声が聞こえなくなっただけで

そんなの私には、些細なことにしか思えないのだから。

無理に泣く理由を作らなくていいや。
一生このままの気持ちで生きていてもいいし
ある日ふと、母さんの死を実感して泣いてもいい。
どっちでもいい。
どっちでも大丈夫。

母さんが亡くなるまでの三年半
どっちでも大丈夫なように生きてきたのだ、私は。

思い返せば、そのための三年半だったように思えてならない。
私は、母さんが生きているうちに
母さんがいなくても生きていける自分を
自分の人生を自分で歩んでいける自分を
作り上げていったのだ。

そのために私は
思いきり母さんにぶつけた。
私の「本音」を
一度もぶつけたことのない「本音」を
ぶつけると母さんが傷つくと分かっていながら
私はぶつけた。

自分の「自立」のために。
これまでの価値観をぶっ壊して、リセットして
もう一度、今度こそ「自分」と呼べる価値観を作り上げるために
「自分」という人間を自分の手で作り上げるために
この世で最も傷つけてはいけないと思っていた母さんを傷つけた。

その結果
これまで信じていたものを疑うようになったり
母さんと価値観が合わなくなったり
母さんを憎んだり、すれ違うようになったり
母さんを「一人の人間」として見るようになったり
ある日いきなり分かり合えたかと思えば
憎しみが一変して心の底から母さんのことが好きになったり
「母さん」も、「一人の人間としての母さん」も
どっちも大切な母さんだということに気づいたり
そんなことが、この三年半の間にたくさんあって

かけがえのないものに、たくさん気がついた。

とてもかけがえのない時間を過ごさせてもらったと思う、私は。

だから
だから
例え母さんが死ぬことになっても
これまでの全てを、これからの全てを
私は否定しないでいきたいと思う。

これで良かったと思わないけれど
死なれるのはやっぱり嫌だけれど
母さんと一緒に過ごした時間を、私は全て「パーフェクト!」と言いたい。
楽しかったことも
辛かったことも
「母さん」という存在も
「自分」という存在も
全て受け入れて生きていたいと思うのだ。

だから
私は母さんという一人の人間の人生を
一生を
私が死ぬその時まで、一緒に生きていこうと思う。

いつも一緒にいる。

母さんと散々約束したのだ。
「私はどこにも行かない、ずっと一緒にいる」と。

その約束
死ぬまで守ってみせる。



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