左目から見た世界

好きに生きるわ。

鶴見にて

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鶴見駅東口で楽器を弾いている男性がいるのを、少し遠くから見ていました。

私は鶴見コンシェルジュ養成講座の修了式帰り。

修了生59名、一人ひとり名前を呼ばれ、修了認定証書を受け取る流れで、自分の名前が呼ばれたとき、心臓が痛いくらいにバクバク脈打つのを感じて、なんだかなぁと思っていた。


人から注目されることは嫌いじゃない。

むしろ見ていてほしい。


そう思うのに、いざ視線を浴びたらこの有様。

それも、私一人が呼ばれたわけじゃない、会場にいる全員が呼ばれて同じ動きをするというのに。


私は注目されたいのか?されたくないのか?


自分のことがよく分からなくて、どうしたものかと思っていたとき、人前で楽器を演奏する男性がいれば、目に付くのは自然な流れだろうと思う。

演奏が終わったタイミングで男性に話しかけた。


「いつもここで演奏しているんですか?」

「いえ、いろいろな場所を転々と。」

「お仕事ですか?」

「うーん、まあそうですね、仕事です。これは津軽三味線で、いま弾いた曲も『じょんがら節』といって、よく弾かれる有名な曲で。こういったものしか弾けなくて。」

「人前で演奏するの、緊張します?」

「うーん、最初の頃は緊張したけど、今は場数を踏んだせいか慣れました。」


丼?にお金を入れて、お礼を言って立ち去った。

「場数」という言葉を手に入れた私は、その言葉を脳内でリフレインし続けた。


私はああなりたいのかな。

人前に出ても緊張しない自分。

人前で堂々としている自分。

そういう自分になりたいのかな?


自分の言いたいことや伝えたいことを、相手に上手く伝えられない自分や、自分でさえ言いたいことがよく分かっていない自分。

そんな、本来の自分とズレた自分が、あの男性の姿を脳裏に焼きつけたがっている。


私は子供の頃から、

「(声が)聞こえないから大きな声で言って。」

「そんな小さな声で言われても分からない。」

と、聞き返されることが多かった。


私の声は小さかった。

だけど本当は、私の声は小さくない。


私は声が小さいのでなく、わざと声を小さくする癖がある。

自分でも何が言いたいのかよく分からなかったり、自分の言っていることに自信がない時。

そういう時は、無意識に声を小さくして、相手に聞こえさせないようにしていた。


「間違っているかもしれないから聞かないで」

「間違っているかもしれないから見ないで」


相手からの批判を怖がったり、正しいか間違っているかを気にしたり、人目を過剰に意識するから自信を失うことも、今では分かっているくせに。


あの男性は、「じょんがら節」が有名な曲だと言っていたけど、私はじょんがら節も知らないし、楽器の名前が「津軽三味線」だとも知らなかった。

男性が最後まで間違えずに弾けたのかも分からない。

だけど私は、例えじょんがら節を知っていて、男性が弾き間違えたのが分かったとしても、そこに拘るようなタイプじゃないと思う。

そこまで思って、自分のしていることが馬鹿馬鹿しくなった。


私は誰になろうとしているんだ。


間違っているかなんてそんなこと。

それまでも今も間違いだらけだったじゃないか。

これから行く道も正しいかどうかなんて分からないまま進むだろうに。


これまでの私と、これからの私へ、

今の私から伝えられることは


『間違っているかもしれないけど聞いて。』

『心臓バクバクするけど見て。』

『怖いけど進むから背中を押して。』


私はいつか、男性を見ている大勢の一人じゃなく、大勢を見ている一人の立場に立ち、そこでどんな景色を見るのか、体験するだろう。



追記*

2016年1月22日。

約2年半前の自分は、今と同じことを言っていました。


あの時思ったことを、2年半経った今も克服できていないのか、それともそう簡単に克服できるものではなかったのか、分からないところ。

だけど一つ変わっていることがあるとしたら、今の自分は

「焦らなくても大丈夫」

と思っていること。

もし忘れてしまっても、何度でも思い出し、そのたびに取り組むから。

少しずつ、ゆっくりと

たくさんの自分と向き合おう。